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Manjiro Kawakami (トーク | 投稿記録) (ページの作成:「シベリア共和国とは2166年のシベリア革命によってロシア連邦から独立した国家。 第三次世界大戦が終結する2169年までの3年間存在した。 中国の傀儡国家であり、建国宣言後、大中華連合に参加した。 首都はバイカル湖畔のイルクーツクに置かれ''「シネ・カラコルム(新和林)」''に改名された *概要 [#xa2a1acc] もともとロシア連邦の東に位…」) |
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'''シベリア共和国'''とは2163年の[[シベリア革命]]によってロシア連邦から独立した国家。 | |||
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[[第三次世界大戦]]が終結する2169年までの6年間存在した。 | |||
中国の傀儡国家であり、建国宣言後、[[大中華連合]]に参加した。 | 中国の傀儡国家であり、建国宣言後、[[大中華連合]]に参加した。 | ||
首都はバイカル湖畔のイルクーツクに置かれ「シネ・カラコルム(新和林)」に改名された。 | |||
== 概要 == | |||
もともとロシア連邦の東に位置するアジアロシア地域には | もともとロシア連邦の東に位置するアジアロシア地域には | ||
トゥバ人、ハカス人、サハ人などのアジア系ロシア人が多く存在しており、 | |||
ロシア連邦の構成国として一定の自治権が与えられていた。 | ロシア連邦の構成国として一定の自治権が与えられていた。 | ||
しかし、ロシア経済が低迷すると辺境であるシベリア地域の開発は滞り | しかし、ロシア経済が低迷すると辺境であるシベリア地域の開発は滞り | ||
トゥバ共和国やハカス共和国など中国国境に近い国家では中国系企業の進出が進み、 | トゥバ共和国やハカス共和国など中国国境に近い国家では中国系企業の進出が進み、 | ||
経済的な繫がりも | |||
経済的な繫がりも<u>中国の影響が強いエリア</u>となっていた。 | |||
極東地域においてもサハ共和国内でのアジア人の比率が増加傾向にあり、 | 極東地域においてもサハ共和国内でのアジア人の比率が増加傾向にあり、 | ||
民族意識の高まりと共により高度な自治権を主張するようになっていた。 | 民族意識の高まりと共により高度な自治権を主張するようになっていた。 | ||
他方、ロシアがEUと和睦するという情報がもたらされ、 | 他方、ロシアがEUと和睦するという情報がもたらされ、 | ||
開発が進む北極海航路において最大の利益を享受するロシアの連合脱退は | 開発が進む北極海航路において最大の利益を享受するロシアの連合脱退は | ||
中国(東アジア連合)アメリカ(北米連合)など連合国を刺激した。 | 中国(東アジア連合)アメリカ(北米連合)など連合国を刺激した。 | ||
北極海航路の権益を狙う中国はアメリカと共謀して | 北極海航路の権益を狙う中国はアメリカと共謀して | ||
シベリア地域をロシアから分離させ自らの勢力圏にしようとした。 | シベリア地域をロシアから分離させ自らの勢力圏にしようとした。 | ||
中国は | |||
中国は'''モンゴル帝国の再興'''をスローガンに | |||
2162年に国内のモンゴル族に<u>汎モンゴル主義</u>を焚きつけてロシアのアジア系独立派を支援し独立を画策した。 | |||
モンゴル族(北方民族)の民族自決はあくまで口実であり、 | モンゴル族(北方民族)の民族自決はあくまで口実であり、 | ||
内モンゴル独立運動から目を外に向けさせつつ、フラストレーションを革命の原動力として利用した。 | 内モンゴル独立運動から目を外に向けさせつつ、フラストレーションを革命の原動力として利用した。 | ||
革命によりロシア連邦を離脱した国家はシベリア共和国を成立させ議会を統一した。 | 革命によりロシア連邦を離脱した国家はシベリア共和国を成立させ議会を統一した。 | ||
経済や安全保障は中国に強く依存し、ロシアの逆襲を恐れて即座に東アジア連合に加盟した。 | 経済や安全保障は中国に強く依存し、ロシアの逆襲を恐れて即座に東アジア連合に加盟した。 | ||
中国の北極海航路戦略もあり、主要都市は極めて短期間で発展した。 | 中国の北極海航路戦略もあり、主要都市は極めて短期間で発展した。 | ||
行政機関は中国共産党をモデルとし、 | 行政機関は中国共産党をモデルとし、 | ||
国家主席を補佐する政治顧問として中国人が重要ポストを独占したため | 国家主席を補佐する政治顧問として中国人が重要ポストを独占したため | ||
事実上、シベリア共和国は | |||
事実上、シベリア共和国は'''中国の傀儡国家'''と言える状況だったが、 | |||
表面上は独立した主権国家として運営され、 | 表面上は独立した主権国家として運営され、 | ||
汎モンゴル主義を発展させた汎アジア主義を掲げた。 | |||
革命に強く関与した中国をはじめとする[[東アジア連合]]やアメリカをはじめとする[[北米連合]]が国家承認した。 | 革命に強く関与した中国をはじめとする[[東アジア連合]]やアメリカをはじめとする[[北米連合]]が国家承認した。 | ||
特に国境を接するモンゴルとの外交関係は特殊であり、 | 特に国境を接するモンゴルとの外交関係は特殊であり、 | ||
先述のモンゴル帝国再興という国是のため大モンゴル連邦の枠組みを作り、 | 先述のモンゴル帝国再興という国是のため大モンゴル連邦の枠組みを作り、 | ||
将来的な連邦国家構想として強い結びつきがあったが、 | 将来的な連邦国家構想として強い結びつきがあったが、 | ||
実態はモンゴルを中国勢力下に取り込むための戦略であった。 | 実態はモンゴルを中国勢力下に取り込むための戦略であった。 | ||
独自の外交戦略としては南北同盟に接近したキリスト系(ロシア正教)のロシアに対抗して | 独自の外交戦略としては南北同盟に接近したキリスト系(ロシア正教)のロシアに対抗して | ||
国内に | '''イスラム国家との連携'''を進め、[[イスラム連合]]に接近した。 | ||
国内に<u>東トルキスタン問題</u>を抱える中国とは対立する事の多かったカザフスタンとも友好関係を築き、 | |||
中国が沿海州を領有したために生まれたウクライナ人難民を受け入れ、緑ウクライナ自治区を設置し、 | |||
タタールやチェチェンなどヨーロッパロシア地域のイスラム系独立運動を支持していた。 | タタールやチェチェンなどヨーロッパロシア地域のイスラム系独立運動を支持していた。 | ||
シベリア共和国はウラル山脈をロシアとの国境と主張しており、 | |||
一時はヤマル半島-オムスクラインにまで勢力が及んだが、 | 一時はヤマル半島-オムスクラインにまで勢力が及んだが、 | ||
ロシアの反撃が始まり、首都イルクーツクにロシア軍が迫るとヤクーツクに遷都。 | ロシアの反撃が始まり、首都イルクーツクにロシア軍が迫るとヤクーツクに遷都。 | ||
2168年時点で東アジア戦争において大中華連合軍は敗北し、国土の大半がロシア軍に占領されたが、 | 2168年時点で東アジア戦争において大中華連合軍は敗北し、国土の大半がロシア軍に占領されたが、 | ||
政府はアメリカ領東シベリアに亡命し、2169年にアメリカが敗北するまで存在した。 | 政府はアメリカ領東シベリアに亡命し、2169年にアメリカが敗北するまで存在した。 | ||
[[カテゴリ:国家]] |
2024年2月18日 (日) 23:01時点における最新版
シベリア共和国とは2163年のシベリア革命によってロシア連邦から独立した国家。
第三次世界大戦が終結する2169年までの6年間存在した。
中国の傀儡国家であり、建国宣言後、大中華連合に参加した。
首都はバイカル湖畔のイルクーツクに置かれ「シネ・カラコルム(新和林)」に改名された。
概要
もともとロシア連邦の東に位置するアジアロシア地域には
トゥバ人、ハカス人、サハ人などのアジア系ロシア人が多く存在しており、
ロシア連邦の構成国として一定の自治権が与えられていた。
しかし、ロシア経済が低迷すると辺境であるシベリア地域の開発は滞り
トゥバ共和国やハカス共和国など中国国境に近い国家では中国系企業の進出が進み、
経済的な繫がりも中国の影響が強いエリアとなっていた。
極東地域においてもサハ共和国内でのアジア人の比率が増加傾向にあり、
民族意識の高まりと共により高度な自治権を主張するようになっていた。
他方、ロシアがEUと和睦するという情報がもたらされ、
開発が進む北極海航路において最大の利益を享受するロシアの連合脱退は
中国(東アジア連合)アメリカ(北米連合)など連合国を刺激した。
北極海航路の権益を狙う中国はアメリカと共謀して
シベリア地域をロシアから分離させ自らの勢力圏にしようとした。
中国はモンゴル帝国の再興をスローガンに
2162年に国内のモンゴル族に汎モンゴル主義を焚きつけてロシアのアジア系独立派を支援し独立を画策した。
モンゴル族(北方民族)の民族自決はあくまで口実であり、
内モンゴル独立運動から目を外に向けさせつつ、フラストレーションを革命の原動力として利用した。
革命によりロシア連邦を離脱した国家はシベリア共和国を成立させ議会を統一した。
経済や安全保障は中国に強く依存し、ロシアの逆襲を恐れて即座に東アジア連合に加盟した。
中国の北極海航路戦略もあり、主要都市は極めて短期間で発展した。
行政機関は中国共産党をモデルとし、
国家主席を補佐する政治顧問として中国人が重要ポストを独占したため
事実上、シベリア共和国は中国の傀儡国家と言える状況だったが、
表面上は独立した主権国家として運営され、
汎モンゴル主義を発展させた汎アジア主義を掲げた。
革命に強く関与した中国をはじめとする東アジア連合やアメリカをはじめとする北米連合が国家承認した。
特に国境を接するモンゴルとの外交関係は特殊であり、
先述のモンゴル帝国再興という国是のため大モンゴル連邦の枠組みを作り、
将来的な連邦国家構想として強い結びつきがあったが、
実態はモンゴルを中国勢力下に取り込むための戦略であった。
独自の外交戦略としては南北同盟に接近したキリスト系(ロシア正教)のロシアに対抗して
イスラム国家との連携を進め、イスラム連合に接近した。
国内に東トルキスタン問題を抱える中国とは対立する事の多かったカザフスタンとも友好関係を築き、
中国が沿海州を領有したために生まれたウクライナ人難民を受け入れ、緑ウクライナ自治区を設置し、
タタールやチェチェンなどヨーロッパロシア地域のイスラム系独立運動を支持していた。
シベリア共和国はウラル山脈をロシアとの国境と主張しており、
一時はヤマル半島-オムスクラインにまで勢力が及んだが、
ロシアの反撃が始まり、首都イルクーツクにロシア軍が迫るとヤクーツクに遷都。
2168年時点で東アジア戦争において大中華連合軍は敗北し、国土の大半がロシア軍に占領されたが、
政府はアメリカ領東シベリアに亡命し、2169年にアメリカが敗北するまで存在した。