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(ページの作成:「'''ホウヲウ'''とは京都で誕生した神道系新興宗教団体である。 これを母体とする政治結社朱雀会がある。 == 概要 == ホウヲウは奈良から京都府南部に拠点を置く神道系宗教団体。 「小椋文献」を神典とし、 天皇親政の国家建設を目標としており、首都移転計画で「京都派」を支援していた。 京都で誕生したが、本部は奈良県の天理大本営…」)
 
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「[[小椋文献]]」を神典とし、
「[[小椋文献]]」を神典とし、


天皇親政の国家建設を目標としており、首都移転計画で「京都派」を支援していた。
'''天皇親政の国家建設'''を目標としており、首都移転計画で「京都派」を支援していた。
 
 


京都で誕生したが、本部は奈良県の天理大本営跡に置いている。
京都で誕生したが、本部は奈良県の天理大本営跡に置いている。


ホウヲウ誕生の背景には奥吉野が重要な役割を担っており南朝の影響が強かった。
ホウヲウ誕生の背景には'''奥吉野'''が重要な役割を担っており南朝の影響が強かった。


天理市の本部は京都と吉野の中間に位置する。
天理市の本部は京都と吉野の中間に位置する。


彼らの目指す国家は通称「日本皇国」で、
 
 
彼らの目指す国家は通称'''「日本皇国」'''で、


天皇(北朝)の京都帰還の暁にはホウヲウ(南朝)が補佐すること想定しており、
天皇(北朝)の京都帰還の暁にはホウヲウ(南朝)が補佐すること想定しており、
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天理大本営跡も宮城と呼べるほどの豪盛な作りになっていた。
天理大本営跡も宮城と呼べるほどの豪盛な作りになっていた。


南朝の皇族としての復帰を掲げており、
<u>南朝の皇族としての復帰を掲げており、</u>
 
<u>日本皇国の建設によって真の南北朝合一を目指していた。</u>
 


日本皇国の建設によって真の南北朝合一を目指していた。


日本皇国の準備会は政治結社朱雀会内部に組織されたが、
日本皇国の準備会は政治結社[[朱雀会]]内部に組織されたが、


京都帰還を果たせず、
京都帰還を果たせず、
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== ホウヲウの歴史観 ==
== ホウヲウの歴史観 ==
50代桓武天皇は小椋文献の預言に従い京都(平安京)に遷都した。
50代'''桓武天皇'''は小椋文献の預言に従い京都(平安京)に遷都した。
 
京都は風水学的に最高の吉相といわれる地相、'''「四神相応の地」'''であった。


京都は風水学的に最高の吉相といわれる地相、「四神相応の地」であった。
51代'''平城天皇'''は平安京から再び平城京に遷都しようとするが52代'''嵯峨天皇'''が阻止。


51代平城天皇は平安京から再び平城京に遷都しようとするが52代嵯峨天皇が阻止。
<u>その後1200年もの間、京都は日本の首都として栄華を極める。</u>


その後1200年もの間、京都は日本の首都として栄華を極める。
平安時代中期に文献は'''藤原氏'''に渡り、小椋文献は徐々に蔑ろにされていく。


平安時代中期に文献は藤原氏に渡り、小椋文献は徐々に蔑ろにされていく。




武士政権の鎌倉幕府は文献をほとんど無視の状態であったが元寇による国難を受け再注目、
武士政権の鎌倉幕府は文献をほとんど無視の状態であったが'''元寇'''による国難を受け再注目、


96代後醍醐天皇は「天皇親政」を掲げ鎌倉幕府を倒すが足利尊氏など武士勢力が裏切り京都を追われ、
96代'''後醍醐天皇'''は「天皇親政」を掲げ鎌倉幕府を倒すが'''足利尊氏'''など武士勢力が裏切り京都を追われ、


足利尊氏の後ろ盾で光明天皇が三種の神器を欠いたまま践祚、北朝が誕生し、
足利尊氏の後ろ盾で光明天皇が三種の神器を欠いたまま践祚、'''北朝'''が誕生し、


吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と朝廷が二つに分かれる事態となった。(南北朝時代)
吉野に逃れた後醍醐天皇の'''南朝'''と朝廷が二つに分かれる事態となった。(南北朝時代)
 
後に南北朝合一になるが、<u>京都を離れていた南朝は徐々に弱体化し以後天皇は北朝由来となる。</u>


後に南北朝合一になるが、京都を離れていた南朝は徐々に弱体化し以後天皇は北朝由来となる。




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戦国時代になり戦国大名は京都を目指した。織田信長は足利義昭を京から追放し室町幕府が滅亡。
 
戦国時代になり戦国大名は京都を目指した。'''織田信長'''は足利義昭を京から追放し室町幕府が滅亡。


朝廷は信長に将来の征夷大将軍として右大臣の重要ポストを打診するがそれを拒否、
朝廷は信長に将来の征夷大将軍として右大臣の重要ポストを打診するがそれを拒否、
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京で軍事パレードを行うなど逆に朝廷を威嚇した。
京で軍事パレードを行うなど逆に朝廷を威嚇した。


信長は京都に近い滋賀に安土城を築き、自らが王となり天皇の皇位を剥奪しようと目論んだが
信長は京都に近い滋賀に'''安土城'''を築き、自らが王となり天皇の皇位を剥奪しようと目論んだが
 
朝廷派の'''明智光秀'''の謀反に会い本能寺の変にて死亡。


朝廷派の明智光秀の謀反に会い本能寺の変にて死亡。




光秀を倒し、信長の後を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉は大坂城を拠点としたが
光秀を倒し、信長の後を継いで天下統一を果たした'''豊臣秀吉'''は大坂城を拠点としたが


四神相応を無視した配置であり豊臣政権は長続きしなかった。
<u>四神相応を無視した配置であり豊臣政権は長続きしなかった。</u>


また京都南部に伏見城を築城し晩年の居城とした。
また京都南部に'''伏見城'''を築城し晩年の居城とした。


この際、京都を守っていた四神相応でいう朱雀(鳳凰)にあたる南の守り巨椋池に堤防を作り
この際、京都を守っていた四神相応でいう朱雀(鳳凰)にあたる南の守り'''巨椋池'''に堤防を作り


巨椋池は、大池、二の丸池、大内池、中内池に分割された。
<u>巨椋池は、大池、二の丸池、大内池、中内池に分割</u>された。


秀吉は朝廷の勢力を弱めるために京都の呪術防壁を壊そうとした。
秀吉は朝廷の勢力を弱めるために京都の呪術防壁を壊そうとした。




その後、徳川家康は京都に二条城を置き朝廷を監視しつつ、再び遠く離れた関東の地に江戸城を築き拠点とした。
 
その後、'''徳川家康'''は京都に'''二条城'''を置き朝廷を監視しつつ、再び遠く離れた関東の地に'''江戸城'''を築き拠点とした。


徳川家は朝廷を保護したため、比較的安定した250年の平和を享受した。
徳川家は朝廷を保護したため、比較的安定した250年の平和を享受した。


一方で徳川光圀は皇室の正統は北朝ではなく南朝であると主張し、
一方で'''徳川光圀'''は<u>皇室の正統は北朝ではなく南朝である</u>と主張し、


北朝の流れを汲む朝廷を否定的に捉え、水戸学の広がりとともに倒幕派にまで影響を与えた。
北朝の流れを汲む朝廷を否定的に捉え、水戸学の広がりとともに倒幕派にまで影響を与えた。




尊皇派であり南朝正統派の薩長新政府によって江戸幕府は滅び、新政府は江戸城跡に皇居を作り明治天皇が即位した。
 
尊皇派であり南朝正統派の薩長新政府によって江戸幕府は滅び、新政府は江戸城跡に皇居を作り'''明治天皇'''が即位した。


京都を離れた明治天皇は「三種の神器を持った南朝が正統」と正式に認めた。
京都を離れた明治天皇は「三種の神器を持った南朝が正統」と正式に認めた。


そして明治時代に巨椋池は干拓され、完全に消滅した。
そして<u>明治時代に巨椋池は干拓され、完全に消滅した。</u>


豊臣秀吉から南の守りを汚された京都の首都機能は完全に東京に移されることになった。
豊臣秀吉から南の守りを汚された<u>京都の首都機能は完全に東京に移されることになった。</u>


政治権力も朝廷も京都を離れ、京都は徐々に衰退する。
政治権力も朝廷も京都を離れ、京都は徐々に衰退する。


第二次世界大戦、京都は原爆投下都市の第一候補にありながら戦災を免れたが日本は敗戦を迎える。
第二次世界大戦、京都は'''原爆投下都市の第一候補にありながら戦災を免れた'''が日本は敗戦を迎える。




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同時に原爆の被害から免れた事実から天皇の京都遷都と完全な四神相応の都市計画を主張した。(京都市皇国)
同時に原爆の被害から免れた事実から天皇の京都遷都と完全な四神相応の都市計画を主張した。(京都市皇国)


ホウヲウは再び平安京による千年王国を夢見た。
ホウヲウは再び'''平安京による千年王国'''を夢見た。


== 京都の四神相応 ==
== 京都の四神相応 ==
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巨椋池の復活を主張したことから「ホウヲウ」や「朱雀会」を名乗る。
巨椋池の復活を主張したことから「ホウヲウ」や「朱雀会」を名乗る。
[[カテゴリ:政治・思想]]

2022年7月5日 (火) 04:21時点における版

ホウヲウとは京都で誕生した神道系新興宗教団体である。

これを母体とする政治結社朱雀会がある。

概要

ホウヲウは奈良から京都府南部に拠点を置く神道系宗教団体。

小椋文献」を神典とし、

天皇親政の国家建設を目標としており、首都移転計画で「京都派」を支援していた。


京都で誕生したが、本部は奈良県の天理大本営跡に置いている。

ホウヲウ誕生の背景には奥吉野が重要な役割を担っており南朝の影響が強かった。

天理市の本部は京都と吉野の中間に位置する。


彼らの目指す国家は通称「日本皇国」で、

天皇(北朝)の京都帰還の暁にはホウヲウ(南朝)が補佐すること想定しており、

天理大本営跡も宮城と呼べるほどの豪盛な作りになっていた。

南朝の皇族としての復帰を掲げており、

日本皇国の建設によって真の南北朝合一を目指していた。


日本皇国の準備会は政治結社朱雀会内部に組織されたが、

京都帰還を果たせず、

奇しくも同じ本土決戦用に準備されていた松代大本営に皇室が移ったため。

日本(北朝政府)からの独立へと路線変更し、

南朝の末裔と称する後継体天皇を立てて宗教国家京都市皇国の建国を宣言した。

ホウヲウの歴史観

50代桓武天皇は小椋文献の預言に従い京都(平安京)に遷都した。

京都は風水学的に最高の吉相といわれる地相、「四神相応の地」であった。

51代平城天皇は平安京から再び平城京に遷都しようとするが52代嵯峨天皇が阻止。

その後1200年もの間、京都は日本の首都として栄華を極める。

平安時代中期に文献は藤原氏に渡り、小椋文献は徐々に蔑ろにされていく。


武士政権の鎌倉幕府は文献をほとんど無視の状態であったが元寇による国難を受け再注目、

96代後醍醐天皇は「天皇親政」を掲げ鎌倉幕府を倒すが足利尊氏など武士勢力が裏切り京都を追われ、

足利尊氏の後ろ盾で光明天皇が三種の神器を欠いたまま践祚、北朝が誕生し、

吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と朝廷が二つに分かれる事態となった。(南北朝時代)

後に南北朝合一になるが、京都を離れていた南朝は徐々に弱体化し以後天皇は北朝由来となる。


鎌倉幕府は京都を離れ、朝廷に隙を与えたために崩壊したと考えられ、

室町幕府は傀儡である北朝を立てて京都に拠点を築くことで権力を保持しようとした。


戦国時代になり戦国大名は京都を目指した。織田信長は足利義昭を京から追放し室町幕府が滅亡。

朝廷は信長に将来の征夷大将軍として右大臣の重要ポストを打診するがそれを拒否、

京で軍事パレードを行うなど逆に朝廷を威嚇した。

信長は京都に近い滋賀に安土城を築き、自らが王となり天皇の皇位を剥奪しようと目論んだが

朝廷派の明智光秀の謀反に会い本能寺の変にて死亡。


光秀を倒し、信長の後を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉は大坂城を拠点としたが

四神相応を無視した配置であり豊臣政権は長続きしなかった。

また京都南部に伏見城を築城し晩年の居城とした。

この際、京都を守っていた四神相応でいう朱雀(鳳凰)にあたる南の守り巨椋池に堤防を作り

巨椋池は、大池、二の丸池、大内池、中内池に分割された。

秀吉は朝廷の勢力を弱めるために京都の呪術防壁を壊そうとした。


その後、徳川家康は京都に二条城を置き朝廷を監視しつつ、再び遠く離れた関東の地に江戸城を築き拠点とした。

徳川家は朝廷を保護したため、比較的安定した250年の平和を享受した。

一方で徳川光圀皇室の正統は北朝ではなく南朝であると主張し、

北朝の流れを汲む朝廷を否定的に捉え、水戸学の広がりとともに倒幕派にまで影響を与えた。


尊皇派であり南朝正統派の薩長新政府によって江戸幕府は滅び、新政府は江戸城跡に皇居を作り明治天皇が即位した。

京都を離れた明治天皇は「三種の神器を持った南朝が正統」と正式に認めた。

そして明治時代に巨椋池は干拓され、完全に消滅した。

豊臣秀吉から南の守りを汚された京都の首都機能は完全に東京に移されることになった。

政治権力も朝廷も京都を離れ、京都は徐々に衰退する。

第二次世界大戦、京都は原爆投下都市の第一候補にありながら戦災を免れたが日本は敗戦を迎える。


以上、ホウヲウは日本を平安の世から混乱の世に陥れたのは文献を軽んじ、皇室を悪用してきたたためであるとし、

天皇は薩長による東京政府に囚われた状態にあると考えた。

同時に原爆の被害から免れた事実から天皇の京都遷都と完全な四神相応の都市計画を主張した。(京都市皇国)

ホウヲウは再び平安京による千年王国を夢見た。

京都の四神相応

京都の四神相応
  • 東 青龍 … 川(鴨川)
  • 西 白虎 … 道(山陰道)
  • 南 朱雀 … 湖(巨椋池)
  • 北 玄武 … 山(船岡山)

四神相応による呪術防壁を構築するため南の朱雀(鳳凰)にあたる巨椋池を復活させる必要があった。

ホウヲウは建国計画の第一段階として天ヶ瀬ダム爆破事件を起こした。

ホウヲウは第二段階として東京でクーデターを起こして天皇を確保しようとするが失敗し、(皇居乱入事件)

政府は首謀者を逮捕し

破壊活動防止法を適応し、ホウヲウ施設を破壊する。(ホウヲウ戦争

ホウヲウの勢力が弱まった時期に南朝、小倉宮の末裔と称する後継体天皇が登場し、

ホウヲウは以後、東朝(東京皇室)と対抗して後継体天皇を擁立し奈良県吉野に潜伏して

10月22日、京都に入り京都市皇国の建国を宣言する。(東西朝時代)

巨椋池の復活を主張したことから「ホウヲウ」や「朱雀会」を名乗る。